この地は、その昔、足代村の氏神として延喜式(九二七)の神名帳にみえる都留弥神社(祭神 速秋津日子神・ 速秋津比売神)がまつられていました。
江戸時代後期の「河内名所図会」享和元年(一八〇一)刊には、都留弥神社、足代村にありとみえています。
明治十八年(一八八五)の淀川大洪水により、神社は、神殿・宝物・古文書などすべてを流失し、その後、村民の 手により再建されて、足代村の氏神社としてまつられてきました。
都留弥神社は、明治四十年(一九〇七)から始まった、国の神社合併により、近隣の荒川・長堂・岸田堂などの 神社と合併して、この地から東方約1kmの現境内地に移転し祭られて居りますが、この時に等境内地は、地元 足代の有志へ払い下げられ、民有共有地として保管されてきました。
この由緒ある境内地跡に、地元の要望に従い、昭和二十九年(一九五四)西宮神社から戎大神(ひるこの尊) の御霊代を勧請申し上げ、布施戎神社の祭祀が始まりました。周辺地域が商業地として発展するにともない、 更に昭和六十三年(一九八八)には大阪の今宮戎神社(事代主命)を勧請申し上げ、以来厳粛な祭祀を執行し、 広大な御神徳を仰いでいます。
参拝者も飛躍的に増加し、毎年1月9日、10日、11日の十日戎には商売繁盛を長う参拝者が群れをなし、 境内地は身動きができないほどの賑わいとなります。